徳川美術館が所蔵する家康「しかみ像」を展示しない理由

しかみ像


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徳川家康の「しかみ像」。正式には「徳川家康三方ヶ原戦役画像」というんだそうですが。

見た目がおもしろいし、敗戦を忘れぬため描かせたというエピソードもまぁいい話。

これを目当てに訪れた、名古屋にある徳川美術館。

思わぬ割引の恩恵も受け、期待に胸膨らませて入館したのですが、結局観ることはできず。

そこそこ有名な絵なのに、徳川美術館はなぜ展示しないのか、というお話。

キーワードは「説明責任」です。

徳川美術館

徳川美術館、なにかにつけて割引を適用しようとしてくるね

2018年9月10日

徳川家康三方ヶ原戦役画像

目にしたことがある方も多いでしょう、冒頭画像は「しかみ像」の色紙です。

これがどんな絵なのか、とりあえずは文化庁のデータベース(文化遺産オンライン)から説明書きを…。

家康の経験した負け戦とは三十一歳に当たる元亀三年(一五七二)十二月、三方ヶ原で起こった武田信玄との合戦である。家康は後年、この敗戦を肝に銘ずるためにその姿を描かせ、慢心の自戒として生涯座右を離さなかったと伝えられる。威厳のある堂々とした権現像とは異なり、憔悴し切った家康の表情が巧みに描かれており、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれている。

ということになっていて、歴史を扱うテレビ番組なんかでもよく出てきていました。

家康の人柄を示す逸話の中でも、それなりに知られた存在になっていた「しかみ像」

この絵の現物を持っているのが、他でもないこの徳川美術館なのです。

当の美術館から「作り話」説

ところが2016年3月、当の徳川美術館の紀要(研究論文集)に徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎という文章が掲載されました。

(この文章は公開されているので、興味のある方はどうぞ。1冊分のPDFは40MB、けっこう重い…。一番はじめにあるのがこの論文です。『金鯱叢書』43

簡単に要約すると、以下のような内容です。

「三方ヶ原敗戦後の姿」を否定

  • もともと尾張にあったものではなく、1780年に紀伊徳川家から嫁いできた姫が持ってきたもの
  • 18世紀には「家康の絵」としてしか認識されておらず、明治以降は「長篠合戦の絵」とされていた
  • 昭和11年の新聞記事で徳川美術館の創設者(徳川義親)が初めて「三方ヶ原敗戦の絵」とした
  • したがって「三方ヶ原敗戦後の姿」という従来見解は、昭和11年以前の史料的根拠がない

「戦陣図」ではなく「礼拝図」

  • 家康を神格化するため、聖徳太子になぞらえて描いた
  • 床机ではなく飾り椅子に座っているのは、戦陣だとすると不自然
  • 片籠手という「超古典的な武装」は武神を象徴的に表現したもの
  • 表情は「悔しさ」ではなく「忿怒」、ポーズは半跏思惟。礼拝のために正面から描いた

昭和11年以降につくられた逸話

  • 「長篠の絵」という認識に明治末に「敗戦」という解釈が加えられ、辻褄が合わなくなり「三方ヶ原敗戦の絵」と説明した可能性
  • 徳川美術館開館(昭和10年)にあたり話題性を重視し、厳密な考証を経なかった
  • 口伝が踏襲され、1962年に美術館が出した図録で徳川家康三方ヶ原戦役小具足着用像とされた
  • 1972年の図録で「敗戦を肝に銘ずるため」「慢心の自戒として」という表現が登場した

…とまぁ、こういった内容の論文が発表されたのです。

ただ、筆者の原史彦・徳川美術館学芸部部長代理(当時)はこうも付け加えています。

根拠がないとはいえ八十年にわたって継承され、広く人口に膾炙した口伝を、本稿のみで変更・修正することは中々難しい問題である。口伝が敷衍した要因は、慢心を戒め己の所業を真摯に反省することで、次なる成功を収めるという人生譚が、日本人の心に響いたことにある。

(中略)

もとより、その浪漫性や作品に対する想いまで否定するつもりはない。残された課題は、本図の位置づけをより明確にすることと、今後徳川美術館において本図をどのように紹介するかであるが、これは本稿の批判・批評を経た上で、後日検討したいと考える。

原史彦[2016]「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」、『金鯱叢書』43、p.20。

有名な絵なのに…ない!

さて、場面を戻しましょう。

大名道具を中心とした国宝や重文を余すところなく展示していた徳川美術館。

今か今かと「しかみ像」の登場を心待ちにしながら、順路にしたがって観覧していました。

が、ぐるっと一周し終わって…「あれ、しかみは?」

売店にもたくさんの「しかみグッズ」が売っていて、現物も持っているはずなのに、なぜ?

仕方がないのでグッズを何種類も購入。

しかみグッズ

購入した「しかみグッズ」の一部。売り場のお姉さんも引き気味だったw

レジのお姉さんいわく「夏に戦国企画をやることが多いから、そこで出てくるかも」とのこと。

その時は「まぁ、所蔵品目に対して展示スペースが広いわけでもないから、そうなのかな」と思ったわけです。

でもね、2015年夏の企画展以来、「しかみ」は出てきていないようなんです。

これって、例の論文が2016年3月に出されたことと無縁とは思えないw

「今後どう紹介するかは後日検討したい」という表明で宙ぶらりんになっていて、扱いに困っているのではないか。

それでも、従来の見解と「作り話」説を併記して展示すべきだと僕は思います。

作り話の発信源が当の徳川美術館であったとしても、そこは責任をもって(批判を恐れず)真実を明らかにするのが筋では?

(この推論が間違ってたらゴメンナサイだけど…w)

まぁ実際のとこは、目当てのものに出会えなかったのが残念だった、というハナシにすぎないんですがw

レプリカや「立体」は浜松に

というわけで、現物を持っている徳川美術館はなにやらいろんな事情で当面は展示しないようです。

どうしても、という場合は浜松城にレプリカがあるようなので、それを観に行きましょうw

(だいぶ前に行ったきりなので、記憶が定かではない…w)

さらに、浜松市博物館には等身大の「立体しかみ像」があるとか。

これはちょっとおもしろそうだw

浜松市はしがらみなく(?)従来説で推し続けているので、心おきなく「しかみ」を堪能できますよw

なお、今回書いてきたような内容はWikipediaに詳しく載っていますので、ご興味のある向きはぜひ。

(毎度毎度、感心させられます…)

きょうはここまで!

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ABOUTこの記事をかいた人

1987年、東京生まれ。コンプリート寸前だった「日本100名城」、30歳にして最初から巡りなおすことに。マスコミで働くかたわら、休みの日にお出かけするのが趣味。いちおう「現場主義」。